シナリオの一貫性について

さて、まず断っておくと、この文章を書いている人は物書きでなければ、創作活動をする人でもないイチアニメファンの戯言であることを了解したうえで読んでほしい。

本題である、物語における世界観とシナリオの関係についてである。

結論から言うと、物語に最も重要なのは、世界観に即したシナリオの一貫性であると私は考えている。

なぜこんなことを考えたのかといえば、ハイフリを見たからである。

端的に言って面白くなかったのである。なぜなら、定義づけられた世界観とシナリオがうまくかみ合っていないのである。シリアスな世界観に反して人の犠牲は主人公のトラウマとしての海難事故にとどまり、当のキャラクターたちは、人の犠牲に対する覚悟が決まらず中途半端なところで足踏みしているのだ。

 

ここでガルパンを例に出してみる。ガルパンは周知の事実として、戦車道と呼ばれる競技で少女たちが競い合うスポ根ものである。

 

そう、ガルパンは戦車を題材にしていながらもスポーツと定義づけることによって、ド定番ともいえるスポーツものとして題材を消化しているのだ。これがもし定義づけに失敗し、犠牲者が出るような設定になっていた場合、スポーツものとして消化されることはなく、広く愛される作品にはならなかっただろう。

 

ハイフリはどちらかに絞るべきだったのだ。

シリアスな世界観で人の生き死にをリアルに描くか、人が死なない世界で学園青春物語を描くかのどちらかにすれば少なくとも中途半端な作品にはならなかっただろう。

(学園青春物語で平気で人が死ぬというのもそれはそれで一興ではあるが特殊な性癖なので今回はなしとする)

 

ここからは、ひたすらハイフリに対する不満なのでスルーでOKである。

 

ハイフリは物語が進んだときに、世界観の深刻さがわからなくなっていくのだ。大砲が飛んできて被弾しても乗員は全員無事なのだ。練習艦という設定ならまだ考える余地があるが、本編で乗っている船はまさに実戦用、大砲も当たれば船は沈没、乗員は命がかかる物語としての重さがあってしかるべきなのだ。

 

議題の中心に最もふさわしいのが主人公の行動の一貫性のなさである。

主人公は決してその場で急遽艦長に任命されたわけではない。晴風に乗船した時点でれっきとした艦長なのだ。にもかかわらず、緊急事態には優柔不断を発揮し、しまいには艦橋を飛び出して洋上に助けに行く始末である。

なぜこんな普通の少女に艦長を任せてしまったのか本部の偉い人に聞きたいくらいである。

ほかの人が持たない主人公の非常識さ(一般社会においては常識と呼ばれるもの)が事件を解決する鍵になるのは定番ではあるが、これは一応ミリタリーの体をなしているのである。ならばこそ、プロとしての在り方と感情の間で揺れ動く主人公を描くべきではないだろうか?

 

主人公に限らず物語のキャラクターの行動は常に一貫しているべきである。一貫した行動を基本として、その一貫性を曲げるだけの要素として、特殊なイベントが用意されたり、物語の真の秘密を用意したりしているわけである。例として、戦車道はやらないと強い意志を持って転校した西住みほは、廃校の危機という避けられない現実を目の当たりにして、意思を曲げ再び戦車道の道に進むのである。その後も、仲間とともに自分だけの戦車道を見出したことで、戦車道に対する負の感情は小さくなり、最初に提示した強い意志の一貫性を完全に曲げてしまうのである。

一貫性を曲げるためにはそれだけのエネルギーが必要なのである。つまり、本来それだけのエネルギーが必要なものをエネルギーなしに都合よく曲げてしまえば当然見ている側は違和感を感じざるを得ず、面白くないと評価を下すのである。

 

まとめ。

定義した世界観に即したシナリオは重要だということ

キャラクターの行動には一貫性が求められ、そこから外れるには相応のエネルギーが必要だということ。

おもしろくない作品というのは、基本的に行動に一貫性がないものだ。さらに、脈絡なく一貫性を外してしまうことで脚本家や監督の都合によるものだとわかってしまうのだ。

面白い作品とはキャラクターの行動に一貫性があり、曲げるにはそれなりの理由を作っているものなのだ。